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非居住者

クリスチャン4世の晩年は、義理の息子たち、なかでももっとも野心的であったコルフィッツ・ウルフェルトとの間に繰り広げられたみにくい争いによって一層苦いものとなった。1648年2月21日、たっての願いによりフレデリクスボー城から愛するコペンハーゲンへと移されたクリスチャン4世は、その一週間後に生涯を閉じた。亡骸はロスキレ大聖堂へ埋葬された。 クリスチャン4世は語学に堪能で、母語の他にドイツ語、ラテン語、フランス語、イタリア語をよくした。生来明るく、人付き合いのよい性格で、まわりに多くの人が集まるのを好んだ。しかし彼には感情的で、短気な側面もあった。勇気と強い責任感にあふれ、仕事を愛し、生まれながらの改革者にふさわしい、強い好奇心と創造欲も兼ね備えていた。そして、色恋であれ野心であれ、自身の願いをかなえることが常に彼の最優先事項であった。若き全盛期には、前に立ちはだかるあらゆる障壁を気概と冒険心で乗り越えていった。しかし中年期以降は、 の欠如の苦い報いを受けることとなり、晩年は疲れ果て、失意のうちに死を迎えた。 スェーデン、クリスチャンスタードの聖三位一体教会クリスチャン4世は領土内に多くの都市や建造物を築いた。その中には、クリスチャンズハウン(コペンハーゲン)、クリスチャニア(現オスロ、火災で壊滅したもとあった街の上に建設)、グリュックシュタット(現ドイツ、ハンブルクに対抗する街として建設)、クリスチャンスタード(スコーネ)、クリスチャンサント(ノルウェー)が含まれる。また短命に終わったものの、キール近くのシュレースヴィヒに建設されたクリスチャンプリスやスェーデン国境に近いクリスチャンノープルもある。また、工業目的としては、銀鉱としてノルウェーのコングスベルク(Kongsberg)、精銅所としてシュレースヴィヒにクプファーミューレ(Kupfermuhle)を建設した。 クリスチャン4世が建造させた建物の中でもっとも有名なものには、展望台「ラウンド・タワー」(Rundetarn)、証券取引所「Borsen」、「カステレット」、大学寮「Regensen」、ローゼンボー城、「ニュボーダー」(Nyboder)、「資産運用 」(Holmens Kirke)、「王立造兵廠」(現博物館)と隣接する「Proviantgarden」、醸造所、(以上、いずれもコペンハーゲン)、2つの三位一体教会(コペンハーゲンのTrinitatis Kirkeと現クリスチャンスタードのHeliga Trefaldighetskyrkan)がある。またクリスチャンはフレデリクスボー城をルネサンス宮殿に改造し、クロンボー城をほとんど完全に城塞へ改造した。 他に、オランダ東インド会社に想を得てデンマーク東インド会社を設立した。デンマークの王室歌「クリスチャン王は高き帆柱の傍に立ちて」の登場人物となっており、またヨハン・ルズヴィ・ヘイベアの国民的劇作品『妖精の丘』(Elverhoj)の主人公ともなっている。 クリスティーナ(Kristina, 1626年12月8日(グレゴリオ暦12月18日) - 1689年4月19日)は、17世紀のヴァーサ朝スウェーデンの女王(在位:1632年 - 1654年)。グスタフ2世アドルフと王妃マリア・エレオノーラ(ブランデンブルク選帝侯およびプロイセン公ヨハン・ジギスムントの娘)の娘。後世の歴史家は、クリスティーナを「バロックの女王」と呼んだ。スウェーデン普遍主義に則り、フィンランド大公を兼ねた最後のスウェーデン君主。 ルネ・デカルトと共に父の死後に即位し、初め宰相であるウクセンシェルナ伯爵の補佐を受けたが、三十年戦争およびトルステンソン戦争終結の1644年頃から親政を行った。彼女の治世下でもスウェーデン軍はフランス王国と提携して中央ヨーロッパに進出し、ヴェストファーレン条約ではポメラニアのほか多数の都市と賠償金を得る。神聖ローマ皇帝に迫って新教徒の権益を拡げさせることにも成功している。オリバー・クロムウェルが護国卿をしていたイングランド共和国と同盟を結び、スウェーデンのヨーロッパにおける大国の地位を安定させた。 豊かな教養を持つクリスティーナは、グロティウスやデカルトらと交わり、彼らを宮廷に招聘している。一方、早くも20歳の時に王位を去る計画を立て、その7年後に従兄カール10世に王位を譲り、外遊を始めた。翌1655年にインスブルックで誓絶式を行い、カトリックに改宗した。フランス・ドイツ・スウェーデンを数回旅行し、ポーランド王国、ナポリ王国の王位につこうとして失敗したのち、1668年からローマに定住し、学問・芸術・文学を研究する個人向け国債 を送る。1674年にはローマにアカデミー(のちのAcademia clementina)を創設した。 クリスティーナは財政に疎く、あるいは無関心だった。後にスウェーデンは国家財政の財政難を招いてしまうが、この財政難の元凶の一端を担いでしまったのが彼女であった。しかし彼女は無能ではなく、高い政治能力を有していた。平和を願い、カトリックとプロテスタントの融和を説き、キリスト教の安寧と言う高貴な理想を抱いた一己の自由主義者であった。また彼女なりの王権成立に努力した騎士道精神の持ち主であった。神聖ローマ帝国におけるスウェーデン領のレーエン関係の成立などがそれを現している。しかし、絶対主義化とプロテスタント主義を目指すスウェーデン政府との軋轢が彼女を苦しめたのである。スウェーデンの国益と自由主義の狭間で揺れ動いた彼女は、最終的に己の意志を貫き、退位を決意したのであった。 ヴォルテールがたびたびクリスティーナをipo で扱い、「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである。新教徒は彼女を苦しめた。ルターを信じないかぎりすべての徳は無意味であるとさえ考えられる有様である。一個の自由思想家にすぎない女性の改宗を促すことは教皇にとって易々たる仕事であったに違いない」と賞賛している(『カール12世』より)。しかしフォンテーヌブローで家臣のモナルジテを殺させたことについては、「王位を賭して自身の哲学を実践しながら、この残忍かつ破廉恥な行為で、せっかくの哲学を台無しにしてしまった」と非難をしている(『ルイ14世の世紀』より)。 イギリスの歴史家ヴェロニカ・ウェッジウッドは即位直後のクリスティーナを「名ばかりの人ではないにしろ、媚びへつらいに甘く、騙されやすかったが、強情でかつ知性をもった若人だった。あの高名な父の娘として、彼女は状況に対処する勇気を持ち、(彼女の老臣たちより)もっと大胆に、あっさりと、父の政策のセンチメンタルな墨守を放棄することができた」と評している。 クリスティーナ女王は、父グスタフ・アドルフの古ゴート主義(ゴート起源説)に則り、「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」(Suecorum, Gothorum, Vandalomque reginam)と称されていたが、三十年戦争終結時に自ら放棄した。なお、フィンランド大公については、スウェーデン王と同義かつ同一なため、退位するまで兼ねていたと思われる。 同国人のストリンドベリに、 に取材した戯曲「クリスティーナ」がある。また、1933年にハリウッド女優グレタ・ガルボがクリスティーナを演じた長編映画「女王クリスティナ」がある。 グリンメルスハウゼンはゲルンハウゼン(Gelnhausen)に生まれた。彼は10歳のときにヘッセンの軍隊に誘拐され、彼らに囲まれる形で三十年戦争の軍人生活という冒険を味わうこととなった。戦争が終わると、グリンメルスハウゼンはシュトラースブルク主教のフランツ・エゴン・フォン・フュルステンベルクの下で働き始め、1665年にはバーデンの都市レンヒェン(Renchen)のSchultheiss(行政官)となった。 この地位を得るとグリンメルスハウゼンは文学業に打ち込むようになり、1668年に17世紀最大のドイツ文学作品と評される『阿呆物語』(Der abenteuerliche Simplicissimus Teutsch, d.h. die Beschreibung des Lebens eines seltsamen Vaganten, genannt Melchior Sternfels von Fuchsheim)を出版した。この作品において彼は、当時ドイツにおいてある程度知れ渡っていたスペインのピカレスク小説をモデルとして用いた。『阿呆物語』は、作者であるグリンメルスハウゼン自身の詳細な自伝ともとることができる。彼は主人公の幼年時代から物語を始め、その後の三十年戦争における数々の感動的な場面と冒険について描写している。これらの場面を描写する際に用いられている粗野な詳細表現が、この本を当時の最も価値ある記録のひとつとしている。しかしながら物語の後半になるとグリンメルスハウゼンは寓話的表現に耽溺していき、最終的にはロビンソン・クルーソー的な物語に没頭してしまう。 彼の他の作品中で最も重要なのは、いわゆるSimplicianische Schriftenと呼ばれるものである: 放浪の女ぺてん師クラーシュ Die Ertzbetrugerin and Landstortzerin Courasche (1669年) Der seltsame Springinsfeld (1670年) Das wunderbarliche Vogelnest (1672年) 彼の作品のうち、『ドイツのミヒェル』(Der teutsche Michel, 1670年)などの風刺作品や『ディートヴァルトとアメリンデ』(Dietwald und Amelinde, 1670年)のような恋愛小説は、さほど興味をひかれるものではない。 グリンメルスハウゼンは1676年8月17日にレンヒェンで死去した。この町には1779年に彼にちなんだ記念碑が建立された。 グリンメルスハウゼンの『放浪の女ぺてん師クラーシュ』は、ベルトルト・ブレヒトが演劇作品『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(Mutter Courage und ihre Kinder)を作り出す重要な着想点となった。